19/1/26 東金城(再訪)

昨日は昼頃に外出して、JR東金線東金駅から西へ1kmほどの場所に向かいました。

概要

本漸寺や東金高校の裏山に当たるこの場所は、東金城の跡で遺構も残っています。
個人的には7年ほど前に失敗したため再訪に当たります。

東金城散策

城域入り口から四の郭


城域入り口付近にある説明板。

(左)城域入り口の門は16時閉門だそうで、前回はこの門に阻まれました。
(右)門を抜けて進んで行きます。

その後しばらく上り道となります。

(左)登った先にある四の郭。非常に小規模で物見といった程度の雰囲気です。また道が整備されているのはここまでです。
(右)四の郭から南側を見下ろします。

三の郭~主郭~二の郭


四の郭裏手の堀切。

(左)四の郭から堀切挟んで向かい(西)にある三の郭。
(右)三の郭から主郭への上り道。

主郭内。若干藪があるためか、それほど広い曲輪とは感じられません。

(左)主郭から二の郭方面へ向かう道。
(右)道の途中から一旦斜面を登り、城域最高所へ到達しました。

(左)城域の西端に当たる二の郭は最も広い曲輪ですが、藪だらけで通れる場所は限られています。
(右)二の郭南端部。
この辺りに城域西側の堀切へ向かう道があったのかも知れませんが、位置を勘違いしていた事もあって気付きませんでした。

トーチカ


(左)二の郭南端には戦時中に築かれたトーチカがあります。
(右)トーチカ脇の窪み。

(左)トーチカ裏手の出入り口。
(右)出入り口から内部を覗き見ます。中には入っていません。

東側腰曲輪


(左)城域東側の腰曲輪。本漸寺に面した場所となっています。
(右)本漸寺を見下ろします。

(左)腰曲輪の一角にある櫓台状地形。
(右)腰曲輪の北端付近。行き止まりのため引き返しましたが、藪に埋もれた道があるかも知れません。

(左)城域南西端の手前。ここも帯曲輪か腰曲輪に相当するのかも知れません。
(右)城域南西側の尾根を見ます。

尾根上へ上って見ます。
意外と起伏が大きく、少なくともこちら側の尾根は道としては用いていなかったのかも知れません。

城の麓にある本漸寺の山門。

東金御殿


東金御殿が置かれていたという東金高校前の道路。
盛り土が道路との境界になっているのも、御殿の名残を思わせます。

(左)八鶴湖対岸(東岸)から見た城域遠景。
(右)同じく東金御殿跡遠景。

歴史

築城年代

この城が築かれた時期はいくつか説があるようです。
室町時代、千葉氏により築かれた鴇ケ峯(ときがみね)城があったとする説があります。
15世紀中頃、享徳の乱が勃発した際に幕府から馬加康胤討伐を命じられた東常縁が家臣であった浜春利を置いたと云われています。
春利は名を治敏と改め、姓も酒井とし上総酒井氏の祖であるとする説があります。
1521年、土気城から田間城を経由して勢力を広げてきた酒井定隆が築いたとする説もあります。
貞隆は治敏の子であると言う説や、三河酒井氏の出自で遠江から移ってきたとする説などがあり、こちらもはっきりしていません。

廃城まで

当時定隆は土気城を本拠としていたようですが、長子定治を土気に置き、三男隆敏を連れて東金に入ったようです。
これにより上総酒井氏は土気酒井氏と東金酒井氏に分かれる事になり、この後は東金酒井氏の本拠となります。
その後酒井氏は千葉氏に仕え、小弓原氏の指揮下にあったようです。
しかし1538年に起こった第一次国府台合戦の結果、後北条氏の勢力が広がってくると隆敏の孫にあたる敏房(胤敏)は千葉氏共々後北条氏の傘下に組み込まれます。
しかし1564年の第二次国府台合戦後、土気城主の酒井胤治が里見方に与し、これとしばしば争ったようです。
1590年の小田原の役に際し、敏房の子である政辰は小田原に赴きますが、城は豊臣方に囲まれ開城し降伏。浅野長政に接収されます。
これにより酒井氏は没落しますが、政辰の子、政成と政次は後に徳川家康に召し出され旗本として仕えたようです。
1613年、廃城となっていた城に徳川家康が鷹狩のための御殿を造営します。
しかしこの東金御殿も1630年の徳川秀忠以後は用いられず1671年に廃止、解体された模様です。

参考

図解房総の城郭
余湖くんのお城のページ
武家家伝_上総酒井氏

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください