18/1/27 栃木城

この日は午前の内に外出して、東武日光線栃木駅から東へ1kmほどの場所にある栃木城址公園へ向かいました。

概要


栃木城址公園という名の通り栃木城の跡であるこの場所は僅かに遺構が残っています。

栃木城散策


城址公園の西にある坂本家前にある案内と説明板。
坂本家は城主皆川氏の家臣だったようです。
またこの辺りもかつては城域だったと思われます。

(左)城址公園標柱。
(右)城址公園内の水堀と土塁。遺構らしい遺構はこれが全てです。

(左)城址公園内にある説明板。
(右)その脇には土塁の上り道があります。写真は城址公園内、南側から見た土塁。

(左)土塁上。
(右)土塁上から城址公園内を見ます。城址公園の辺りは二の丸(東丸)跡とされているようです。

(左)城址公園の北から見た土塁。
(右)大体同じ場所から見た水堀跡。

(左)水堀跡からは水路が繋がっています。
(右)字古城にある年金事務所。

栃木城歴史

築城から廃城まで

この城は1394年に長沼秀光によって築かれたのが始まりと言い伝えられているようです。現在年金事務所がある辺りの字古城と呼ばれている辺りがその伝承地と思われます。
1591年、秀光の6代孫に当る皆川城主皆川広照は前年の小田原の役で後北条氏に与した関わらず徳川家康に投降し所領を安堵され、城を築き皆川城から居を移します。これを持って皆川藩(1.3万石)立藩とも見做されているようです。
広照は家康六男、忠輝の附家老となり、1603年に忠輝が信濃国川中島に転封されると飯山城を与えられ、4万石に加増されます。
しかし1609年、広照は忠輝と揉めて家康の裁定により改易されます。この時家康の命により城は廃城され破壊されたのだそうです。
広照は後に大阪の陣での戦功により大名に復し常陸府中藩主となっています。

栃木陣屋として

1640年、下総国百首から松平重則が転封され皆川藩が再度立藩しますが、政庁は皆川城の麓に置かれたようです。
1705年、足利藩主となった戸田忠時の所領となり、城跡内に陣屋が置かれたようです。
しかし6代藩主忠禄の頃に陣屋は城外に城跡の外に移されたようです。

感想など

広照によって近世城郭として築かれた城は本丸、二の丸、三の丸、外郭からなっていたようですが、現在残っている遺構はごく一部で、城址公園は二の丸でも本丸の東側にあった東丸と呼ばれる部分の北側に当る箇所のようです。
南側の外郭と伝わっている圓通寺が城址公園から600mほど離れている事からそれなりの規模があったと思われます。
従って本丸は城址公園の西側にあったと思われますが、詳細は不明です。
ただ個人的には字古城と呼ばれている年金事務所周辺が水路にも囲まれていてそれっぽい気はしています。


写真は年金事務所東側の水路。

城域の西を流れる巴波川。

参考

現在地説明板
栃木市公式webサイト

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コメント

  1. […] このころ栃木城跡にあった陣屋を皆川城跡の麓に置いたと思われます。 […]

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