18/1/20 寺台城

この日は昼過ぎに外出して、京成本線京成成田駅から北東へ2kmほどの場所にあるJA成田市へ向かいました。

概要


JAの敷地も含めた南側の丘陵は寺台城の跡と言われ、遺構も残っています。

寺台城散策


(左)南東、根木名川の対岸から見た城域遠景。
(右)城域北端の四郭跡とされるJAの敷地。

(左)JAから主郭物見台を見ます。
(右)物見台への登り口。

(左)物見台西側の武者走り状の地形。ここから南へ迂回して、物見台へ登れるのですが、この時は見落として先端部を直登しました。
(右)物見台には説明文が書かれた標柱と石碑があります。

(左)物見台から東側を見ます。ここには写っていませんが、足下には腰曲輪のような出っ張りが見受けられます。
(右)物見台の南側にある堀切。

(左)物見台方面から南へ向かう道。
(右)主郭は一部が畑地となっている以外は竹やぶです。

城域東側の道へ出て南下します。
写真は城域の東にある保目神社。

保目神社の西には城域を縦断する道が通っており、ニ郭と三郭間の空堀跡と見られています。

空堀跡付近から南西の成田山方面を臨みます。

(左)空堀跡から北へ伸びる道。
(右)道の先にはニ郭の一角に鎮座する鷲神社があります。この一角を除くと藪です。

(左)鷲神社前から反対側の空堀を見下ろします。
(右)空堀の堀底。

(左)堀底は枝分かれしているようにも見え、むやみに動くと道に迷いそうな雰囲気です。もっとも藪や倒木で動ける範囲は限られていそうですが。
(右)空堀跡から鷲神社の北向側に開かれた一角があったのでよじ登った所。祠が祀られていました。この一角が主郭の一部なのでしょうか。他は藪で通行は難しいようです。

(左)先程の堀底道から南側へ登ると。三郭跡とされる平場があります。畑地だったようですが、現在は荒れてきており笹が生えてきています。このまま放置されたら笹薮になりそうです。
(右)城域の南にある永興寺山門。

寺台城歴史

この城がいつ頃築かれたのかはっきりしていないようです。
戦国時代には千葉氏家臣の海保氏の居城だったと云われているようですが、現地説明文含め馬場氏の居城だったとする資料もありこちらも諸説ありそうです。
里見氏の一族である海保氏は七代目である氏之からこの城を居城としたようです。
1590年の小田原の役当時は氏之の子英氏が城主だったようですが、小田原城に詰めており馬場勝政が城代を務めていた模様です。
そして豊臣方の徳川軍に攻められ、城主説もある城代勝政は討死します。
徳川家康が関東に入封すると、家康は英氏の子三吉(氏次)に城を与えますが、三吉は後に喧嘩が元で切腹を命じられ改易、城も廃城となったようです。

参考

余湖くんのホームページ
攻城団
戦国武鑑_武家家伝
現地説明文
日本城郭全集3

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