17/11/3 額田城

この日は午前中に外出して、JR水郡線額田駅から東へ2kmほどの場所にある阿弥陀寺付近へ向かいました。

概要


この付近は額田城があった場所で、阿弥陀寺裏手に当たる東側には現在も内郭の遺構が良く残っています。
とは言え、当日早めに出たのは良かったのですが、乗換駅を勘違いして予定より一時間以上遅い到着となり到着した時は日没まで時間が無い有様でした。

額田城散策


(左)城域北西に当たる場所。額田南郷と北郷間にある信号機の西で交差点になっている辺りから外郭だったようです。北は額田小学校の裏手、東は七鬼神社辺りまでと結構広い城域だったようです。
(右)北西から本曲輪方面を見たもの。

(左)三の曲輪内にある標柱。三の曲輪は現在宅地化してますが、土塁などは残っています。
(右)標柱裏手にある三の曲輪西側の土塁。土塁を見ていた所、現地の方に声を掛けて貰ったので少し城について話をしてからニの曲輪方面へ向かいました。

(左)ニの曲輪虎口。
(右)ニの曲輪空掘跡。空掘跡は遊歩道として整備されている箇所もあるようですが、残念ながら遊歩道を散策する時間はありませんでした。

ニの曲輪内の様子。(クリックで拡大、画像はgooglephotoが自動加工した物)

本曲輪空掘跡。

(左)本曲輪へ向かう道。説明板も設置されています。
(右)説明板。

本曲輪空掘の虎口側は水堀になっています。

本曲輪虎口。

本曲輪内。
本曲輪を探索している間に暗くなり写真撮影は困難となりました。
この後本曲輪南側の曲輪や出丸だったと言われる阿弥陀寺を見てきましたが、軽く見てきた程度で写真は撮れていません。

額田城歴史

築城から室町時代

この城は鎌倉時代の建長年間(1249-1256)に佐竹氏5代目当主義重の次男義直がこの地に居城を築き額田氏を称したのが始まりとされています。
しかし室町時代中期に佐竹氏家内で勃発した山入の乱と呼ばれる約100年間続く内紛に於いて、城主義亮は佐竹一門で庶流筆頭とされた山入氏の山入与義と結んで佐竹氏宗家に対抗します。
1416年に起こった上杉禅秀の乱に於いて義亮と与義は上杉禅秀方、佐竹氏惣領である佐竹義人は関東公方方にそれぞれ与し争いを続けます。
その結果1423年に佐竹氏、関東公方方の攻撃により城は落城し額田氏は滅亡します。
額田氏滅亡後、義人は家臣である小野崎通重を額田城主に任じ、額田小野崎氏の居城となります。
ただ通重は子が無く、江戸通房の子通栄が養子として額田小野崎氏を継承します。

戦国時代から廃城まで

1588年、江戸氏家中で神生の乱と呼ばれる内紛が勃発し、江戸氏家臣で主家に敗れた神生氏が逃げ込んできます。
城主照通(従通?)はこれを匿ったため、翌89年に佐竹義重の助力を得た江戸氏に攻められます。
照通は佐竹氏と対立していた伊達政宗と通じて対抗しようとしますが、江戸佐竹両氏の攻撃により和睦し神生氏は結城城へ逃れ従通は再び佐竹氏に仕えます。
1590年、佐竹義重は小田原の役に於いて豊臣方として参陣したことで常陸国の支配を認められます。
その為常陸統一のため大掾氏一族などの領主を謀殺すると各城を攻略して行きます。
そして義重は主家に反抗的であったためか額田小野崎氏に謀反の疑いありとして翌91年に佐竹氏の攻撃を受け落城し照通は伊達氏の下へ逃れます。(照通は従通とも記載されていたりしますが、同一人物か親子か不明です。)
これにより城は廃城になったようですが、同族である石神小野崎氏の石神城が最後まで佐竹氏に従った結果廃城になったのと比べて対照的です。

感想

今回は移動中のミスで十分に探索出来ませんでしたが、遺構も良く残り適度に整備され散策し易い印象でした。

参考

関東の名城を歩く 北関東編

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