17/6/24 石神城

この日は昼頃に外出して、JR常磐線東海駅から北東へ2kmほどの場所にある石神城址公園へ向かいました。

概要

ここは名前の通り石神城の跡で、現在も遺構が残っています。

石神城散策


(左)北側にある本城域入り口。
(右)入り口から少し進んだ所にある三の郭虎口土橋を右手側土塁上から見たもの。

(左)土橋右手側の空堀跡。
(右)土橋左手側の空堀跡。

(左)三の郭内。
(中)三の郭西側の空堀跡。
(右)同じく西側の土塁跡。

(左)三の郭東側、主郭との間に説明板。
(右)主郭虎口。主郭は三の郭東側にあります。

(左)主郭空堀跡。
(中)御城と呼ばれる主郭内の様子。フェンスで囲まれた一角は除染廃棄物置き場となっています。
(右)主郭西側の土塁。

(左)主郭の東側にあるニの郭を見たもの。遠見郭と呼ばれていたようで、物見的な小規模な郭のようです。
(右)ニの郭土塁の切れている箇所。ここに橋を掛けていたのでしょう。

(左)城址公園入り口から北郭を見ます。北郭は外郭の一部で、かつては北から西にかけて外郭が広がっていたようです。
(右)北郭の様子。現在は畑地になっています。

石神城歴史

この城の築城については諸説あるようですが、1370年頃藤原秀郷の流れを汲み、佐竹氏に臣従していた小野崎氏の11代当主通胤の子である通房が石神氏を名乗った事から、この頃に築かれたと見られているようです。別説としては通房の曾孫である通綱が戦功により佐竹義治より石神を与えられて城を築いたとされているようです。
1535年、通綱の孫にあたる道長は佐竹氏に反乱を起こし、同族の額田氏に攻められています。
1547年、道長は再度乱を起こしますが落城し、道長は城から退去します。
しかしその後道長は戦功により城に復帰したようです。
1602年、佐竹氏が秋田へ移封されると城主の通広はそれに従い、城は廃城となりました。

参考

現地説明板
関東の名城を歩く 北関東編
余湖くんのホームページ
小野崎氏 – 武家家伝

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コメント

  1. […] この城は鎌倉時代の建長年間(1249-1256)に佐竹氏5代目当主義重の次男義直がこの地に居城を築き額田氏を称したのが始まりとされています。 しかし室町時代中期に佐竹氏家内で勃発した山入の乱と呼ばれる約100年間続く内紛に於いて、城主義亮は佐竹一門で庶流筆頭とされた山入氏の山入与義と結んで佐竹氏宗家に対抗します。 1416年に起こった上杉禅秀の乱に於いて義亮と与義は上杉禅秀方、佐竹氏惣領である佐竹義人は関東公方方にそれぞれ与し争いを続けます。 その結果1423年に佐竹氏、関東公方方の攻撃により城は落城し額田氏は滅亡します。 額田氏滅亡後、義人は家臣である小野崎通重を額田城主に任じ、額田小野崎氏の居城となります。 ただ通重は子が無く、江戸通房の子通栄が養子として額田小野崎氏を継承します。 1588年、江戸氏家中で神生の乱と呼ばれる内紛が勃発し、江戸氏家臣で主家に敗れた神生氏が逃げ込んできます。 城主照通(従通?)はこれを匿ったため、翌89年に佐竹義重の助力を得た江戸氏に攻められます。 照通は佐竹氏と対立していた伊達政宗と通じて対抗しようとしますが、江戸佐竹両氏の攻撃により和睦し神生氏は結城城へ逃れ従通は再び佐竹氏に仕えます。 1590年、佐竹義重は小田原の役に於いて豊臣方として参陣したことで常陸国の支配を認められます。 その為常陸統一のため大掾氏一族などの領主を謀殺すると各城を攻略して行きます。 そして義重は主家に反抗的であったためか額田小野崎氏に謀反の疑いありとして翌91年に佐竹氏の攻撃を受け落城し照通は伊達氏の下へ逃れます。(照通は従通とも記載されていたりしますが、同一人物か親子か不明です。) これにより城は廃城になったようですが、同族である石神小野崎氏の石神城が最後まで佐竹氏に従った結果廃城になったのと比べて対照的です。 […]

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