2017GW(1) 5/4 鴫山城

この日は午前中に外出して、会津田島駅から南へ1kmほどの場所にある愛宕山へ向かいました。

概要


この愛宕山は鴫山城の跡で現在も遺構が残っています。

鴫山城散策

駅~山麓部

探索後会津田島駅前から撮ったもの。
会津田島駅前右手側に見えるのが城域である愛宕山で、標高750m(説明板では749m)の山城で比高は300mほどです。

会津田島駅のホームにあったイラスト。

(左)城域の北にある標柱と説明板。
(中)説明板。
(右)城域へ向かう道。

(左)(中)城域に入った辺り。この辺りは侍屋敷と呼ばれている外郭のようです。
(右)案内板。

(左)石垣が積まれた城門(大門)跡。
(中)右手側空掘。
(右)左手側空掘。

(左)大門を抜けると御平庭と呼ばれる曲輪があります。ここは城内への取次などをする施設があったと見られているようです。右手側の高台上は下千畳と呼ばれる曲輪があります。
(中)御平庭にある井戸跡。
(右)御平庭の裏手にある嗽清水。

(左)下千畳より一段高くなった位置にある上千畳は本曲輪に相当する曲輪だったようです。
(中)嗽清水と上千畳の間にある道を進むと拝殿が見えてきます。
(右)拝殿の脇から山上部分の曲輪目指して登っていきます。

山上部分

(左)登って最初にたどり着くのは御茶屋場と呼ばれる曲輪です。詰城の城門に相当する場所だったのだそうです。
(中)御茶屋場。
(右)御茶屋場からの登り道。

(左)御茶屋場から登ると主水曲輪と呼ばれる曲輪があります。
(中)主水曲輪内。曲輪全体を把握するのは少し難しそうです。
(右)主水曲輪からの登り道。

しばらくこのような道を登って行きます。

(左)山頂付近。
(中)山頂入り口の門は仁王像が祀られています。
(右)山頂に当たる愛宕神社。詰城部分の主郭に当ります。

(左)山頂からの眺め。標高750mは自分が訪れた中では最高峰です。
(右)主水曲輪を見下ろします。

山麓・西側


(左)下山して上千畳から西側へ向かいます。
(中)土門跡。矢倉台とともに城域西側の外郭を守る役割があり、枡形だったようですが、現在では分かり難くなっています。
(右)矢倉台へ向かう道と思われますが、矢倉台までたどり着けませんでした。

(左)嗽清水の東にある御花畑と呼ばれる曲輪。薬草や食料となる植物が植えられていたのだそうです。
(中)城域東側の東外壁塁上の通路。この東外壁塁は二重土塁になっています。
(右)二重土塁の外側土塁を見下ろします。

(左)城域東側の道を南下します。
(中)城域北東部の八幡神社。ここも外郭の防衛施設があったと思われます。
(右)八幡神社東側の空掘。

八幡神社参道入口。城域の北東へ出た事になります。

鴫山城歴史

築城から室町時代

この城のいつ頃築かれたかははっきり分かっていませんが、奥州長沼氏によって築かれたと見られているようです。
長沼氏は下野国の小山氏の一族で下野国の他にも南会津の田島にも所領を得ていました。
南北朝時代の1352年、長沼氏嫡流の秀直は田島に移り、奥州長沼氏と下野長沼氏に別れたようですので、その辺りの時期に築かれたのかも知れません。
長沼氏時代は山頂から御茶屋場までが城域だったと見られています。
長沼氏は南北朝では嫡流を始め、多くが北朝方についていたようです。
秀直の子、義秀は1416年に上杉禅秀の乱において鎌倉公方方で功が挙げた後下野国に復帰したようです。
義秀が去った後、田島では長沼氏の庶流とみられる政義が城主を勤めていたようですが、この時期の鴫山城主長沼氏は勢力を広げてきていた蘆名氏に対して徐々に傘下に入ったようです。

戦国時代~奥州仕置、長沼氏退去

1509年、政義は蘆名氏とともに宇都宮氏と戦うも破れています。(片角戦萱の戦い)
1521年、蘆名盛舜が蘆名氏当主に就くと、蘆名家中の反対勢力が反乱を起こし、当時の城主実国もそれに加担します。
その後小競り合いが続いた物の、1532年に盛舜の攻撃により落城し降伏したようです。
1586年、蘆名氏当主亀王丸が幼年で没すると、後継の養子を巡って伊達派と佐竹派に別れますが、実国の子盛秀は伊達派に与します。
結局蘆名氏は佐竹氏から養子を受け入れますが、1589年に伊達氏との摺上原の戦いで敗れ、当主義広は佐竹領へ落ち延び大名として滅亡します。その際盛秀は伊達氏の傘下に入り、伊達氏に抵抗を続ける義広方を伊達勢とともに攻撃しています。
1590年、義広方である河原田氏の河原田盛勝の軍が攻めてきたため、盛秀はこれを迎え撃って撃退しますが、この時の傷が元で没したと言われています。
同年、豊臣秀吉による奥州仕置によって伊達氏が会津から去る際に盛秀の子である福国、盛重らは伊達氏に従って城を去り、伊達氏に仕えたのだそうです。

奥州仕置~廃城

奥州仕置の結果、会津は蒲生氏郷に与えられ、蒲生氏家臣の小倉行春が6300石を与えられて入城し、後に1万石に加増されてます。
行春の頃から城は改修され、麓の居城が整備されていったようです。
1598年、蒲生氏が会津92万石から宇都宮18万石に大減封されると、会津は上杉氏に与えられ、上杉氏家老直江兼続の弟である大国実頼が2万1000石で入城します。
1600年、関ヶ原の戦いの後蒲生秀行が会津60万石を与えられて復帰すると、再度行春が6000石を与えられて入城します。
1609年、蒲生家中の争いにより行春が蒲生家を去りますが、その後城主が置かれたか分かっていません。
1627年、蒲生氏が伊予国松山へ移封され、替わって加藤氏が会津40万石を与えられ藩主になった際に廃城となったようです。

感想など

予想以上の山城で、個人的には最も高い山城でした。
城域の規模も大きく、全部を探索しきれていませんが、遠隔地と言う事も有り再訪は難しそうという気がします。

この探索の後は宿を取っていた会津若松市へ移動しました。

参考

現地説明板
余湖くんのホームページ
奥州長沼氏 – 武家家伝

田島陣屋

陣屋跡は鴫山城の北東300mほどの南会津町役場にあります。
1643年、会津藩主加藤氏が改易され幕府直轄地になった際に代官所として置かれたのだそうです。
その後は会津藩預かりとなり、1790年には東側に中町陣屋として移転し、1865年には戊辰戦争に備えて後町陣屋として移転したそうです。

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