2016GW(3) 白井城

前橋から移動した後、遅めの昼食取ってからJR上越本線渋川駅から北へ3kmほど離れた場所にある白井城へ向かって移動しました。

白井城散策

城域外から城域東帯曲輪

(左)城域の南を流れる吾妻川。
(中)南東から見た城域遠景。結構大規模な城である事が伺えます。
(右)城の東にある、白井宿の入り口。

(左)白井宿から城域へ向かう案内があります。
(中)城のある台地の一角に建っている神明宮。ここからも城域へ向かう事が出来ます。
(右)神明宮付近から城域への入り口。

(左)すぐにこのような空堀跡を見ることが出来ます。
(中)進入路は帯曲輪を用いています。
(右)進入路は向きが変わって、堀を横切って行きます。

(左)帯曲輪の標柱。
(中)、(右)本曲輪方面へは三日月堀と呼ばれる堀跡の堀底道を通って行きます。

本曲輪、笹曲輪

(左)堀底道から本曲輪前に出ます。
(中)本曲輪前から見た三日月堀。
(右)本曲輪前から二の曲輪を見ます。

(左)本曲輪虎口の石垣。
(中)虎口脇の土塁。
(右)本曲輪内。

(左)本曲輪内には標柱や説明板があります。
(中)説明板。
(右)本曲輪の土塁。

(左)本曲輪の先、城域南の先端部に位置する笹曲輪。
(中)笹曲輪の先端には見張り台のような土壇があります。
(右)笹曲輪側から見た本曲輪土塁。

二曲輪~北曲輪

(左)ニの曲輪から本曲輪を見ます。
(中)ニの曲輪と三の曲輪間の土橋跡。
(右)ニの曲輪空堀跡。

(左)反対側の空堀跡は田畑として利用されていました。
(中)三の曲輪内。ニの曲輪もそうでしたが、標柱が設置されています。
(右)三の曲輪からニの曲輪を見ます。

(左)三の曲輪の北にある北郭の標柱。このあたりだと境界か曖昧になっている気がします。
(右)城山不動尊が建っているのは土塁跡と思われます。

白井城歴史

白井長尾氏時代

この城の築城時期ははっきり分かっていないものの、室町時代に白井長尾氏の長尾景仲によって築かれたと見られ、その本拠であったとされています。
1476年、景仲の孫である景春は山内上杉氏家宰職を巡って長尾景春の乱を起こします。
景春は豊島氏、那須氏、成田氏、千葉孝胤らと結び戦いますが、城は山内上杉氏に占拠され、その拠点として用いられます。
景春の長子景英は劣勢になっても抵抗しようとする父と対立して山内上杉氏に降り、後に城を返還されます。
1528年、景英の子である景誠は家臣に暗殺されます。景誠には後継者がいなかったため、総社長尾氏から憲景が入り当主となります。
1560年、上杉謙信が関東出陣するとそれに従い、上杉氏の拠点として用いられます。
1567年、武田氏家臣の真田幸隆、信綱によって攻められ落城。憲景は上杉謙信の元へ逃れます。
その後白井城に復帰するものの1572年に再度真田幸隆によって落城します。
その後武田氏滅亡まではその拠点として用いられていたようです。
そして武田氏が滅亡した1582年、憲景の子輝景は織田氏重臣である滝川一益と結んで城を奪還します。
しかし同年本能寺の変が起こると後北条氏の傘下となります。
そして1590年、輝景の弟で前年に跡を継いでいた景広は、小田原の役で前田氏、上杉氏らの攻撃を受け開城。白井長尾氏は没落します。

白井長尾氏以降

同年徳川家康の関東入封により、本多康重が2万石を与えられて入城し、白井藩が立藩します。
1601年、康重は前年の関ヶ原の戦いでの武功により岡崎藩5万石に加増され転封します。
その後も松平康長(2万石:1601-1602、古河藩へ)、井伊直孝(1万石:1602-1616、彦根藩へ)、西尾忠永(2万石:1616-1618、土浦藩へ)と短期間で藩主が入れ替わります。
そして1618年、最初の藩主本多康重の三男、紀貞が1万石を与えられて入城しますが1623年に後継がいないまま病没し無嗣断絶するとそのまま白井藩は廃藩、城も廃城となりました。

参考

現地説明板
余湖くんのホームページ
長尾氏 – Wikipedia

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