15/10/11 大椎城

この日は昼過ぎに外出しました。

概要

JR外房線土気駅から南西2kmほどの場所にあるあすみが丘第8緑地へ向かいました。
ここは大椎城があった場所なのだそうです。
以前から存在は知っていましたが、進入するには私有地を通らないと行けないと言う情報があったため難しいと考えていました。
しかし私有地以外にも進入路があるらしいと言うことで今回挑戦してみました。

大椎城散策

城域東側の丘を登って通り抜けます。
携帯ナビが高級住宅街ワンハンドレッドヒルズ(通称チバリーヒルズ)内の道を示していたので、それを避けるために大回りとなりました。
通りぬけ出来ない事は無いのかも知れませんが、パトロールカーらしき車が巡回しているような場所に進入する気にはなれませんでした。

(左)城域北側を横断しての北西からの進入路。
(中)城域へ向かう道。本来の登城道は南側にあったようですので、こちら側は搦手になると思われます。雨の後なので泥濘みがありました。また蜘蛛の巣に頭から2度ほど突っ込みました。
(右)土橋遺構らしきものもありますが、傾斜も出てきます。

(左)道を登り切ると堀底道に出ます。2郭と3郭の間の堀で、この写真には写っていませんが横矢もかかっています。
(中)他の遺構を求めて(多分)2郭へ直登したもの。この城の曲輪は全体的に土塁遺構はあまり無く、平場を堀で仕切っている印象です。後の改変とかもあるのかも知れませんが。
(右)曲輪の一角に見える土塁遺構らしきもの。

(左)城域南側の通路。
(中)虎口は封鎖されて、私有地側へ侵入出来ないようになっています。城への進入路は搦手のみと言うことでしょう。
(右)虎口の正面には1郭と2郭間の堀底道となっています。

(左)1郭虎口と城跡碑。
(中)ここに来るまで手間取ったので城跡碑を見た時の達成感は非常に大きかったと言えます。
(右)1郭内。広いですが、遺構は他の曲輪同様それほど見受けられないように見えます。

城域の西にある新大椎橋から見た遠景と城下を流れる村田川。

大椎城歴史

この城は千葉氏の祖である平忠常が築き、千葉常兼、常重の親子が1126年に千葉へ居を移すまでの居城であったと言い伝えられているようです。
しかしこの一帯は後に源頼朝に滅ぼされる上総氏の領地で、千葉氏の居城であったと言うのは伝承に過ぎないと見られているようです。
また残っている遺構も明らかに平安末では無く戦国時代のもので、当時この地を治めていた土気城主酒井氏が築いたと見られています。
仮に千葉氏が拠っていた時期があったとしても、酒井氏の手によって別物になってしまっていると思われます。
そしてこの城は酒井氏が小田原の役で滅亡したのに伴い廃城になったと見られています。

参考

図解房総の城郭

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