15/7/19 相模岡崎城

この日は昼頃に外出して小田急伊勢原駅から南へ1.5kmほどの場所にある無量寺へ。
ここは岡崎城があった場所です。

この日の散策ですが、後にデジカメメディアエラーでデータを出来る限り取り出した後にフォーマットしたためデータが半分ほど無くなりました。
今回のデータも痛いですが、これまでの撮った写真の元データを喪失したのが非常に痛手です。

無量寺境内にある説明板。こちらの写真はスマホで撮ったものです。
無量寺内に遺構は無く、門前の道から北側を迂回して裏手(西側)へ回りこむと遺構らしき物を見ることが出来ます。

無量寺の西側にある畑は外堀跡と見る向きもあるようです。
また畑脇の道は土塁跡にも見えます。

無量寺北西部には堀跡と曲輪跡らしきものが見受けられます。

無量寺から北西に進んだ所には築城者と言われる岡崎義実の墓があります。

この城は平安時代末に衣笠城主の三浦義継の四男岡崎義実によって築かれたと言われています。
義実は源頼朝が挙兵すると息子の佐奈田義忠と伴に参加し功績を上げました。
しかし義実没後に跡を継いだ孫の実忠は1213年の和田合戦にて和田氏側に付いて参戦して戦死、岡崎氏は滅亡します。

岡崎氏が滅びた跡しばらく主が無かったようですが、室町時代の1494年三浦氏の三浦義同が城主となります。
現在残っている遺構は三浦氏によるものと思われます。
その後三浦氏の後北条氏に対する拠点として機能していましたが、1512年北条早雲により落城します。
義同は住吉城、三崎城と後退し1516年の三崎城陥落の際に戦死し三浦氏も滅亡しました。
その後程なくして城も廃城になったと見られています。

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コメント

  1. […] 為久は三浦一族で三浦義明や岡崎城主岡崎義実の兄弟である蘆名為清の孫にあたる人物です。 […]

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