11/11/13 中和田城

この日は昼過ぎに外出して、相模鉄道いずみ中央駅から東南300mほどの場所にある泉中央公園へ。
ここはかつて中和田城があった場所です。
Pb130283 Pb130284 Pb130294(左) 西側から見た城域遠景。

(中)城域西側にある須賀神社は城主である泉小次郎親衡が鎮守として祀ったと言われています。右手側は親衡が道場として創建した長福寺です。

(右)城跡である泉中央公園。

Pb130288Pb130291_2Pb130310_2(左)城域西側の平場にある、 泉小次郎馬洗い池 。訪れた時は枯れてました。

(中)公園西側にある盛土。土塁遺構に見えなくもありません。

(右)城域東側にある盛土。土塁遺構にも見えますが道路に沿っているため、公園造成時に造られた可能性もあります。

Pb130297 Pb130300 Pb130304 (左)城域南側にある二重空堀、内側の空堀跡。

(中)二重空堀。外側の空堀跡。

(右)土橋跡らしき場所。

中和田城は鎌倉時代初期に幕府の御家人だった泉親衡の居館と言われています。
泉氏は信濃国小泉庄を本拠として しており、源為公の末裔とされていたようです。

二代目将軍頼家が追放され、弟実朝が将軍に就任すると北条氏が実権を握り、頼家は暗殺されます。
その状況に反感を抱いた親衡は頼家の遺児を擁立し北条氏打倒のため、安念坊と言う僧を北条氏に批判的な御家人の元へ送り協力を要請します。
しかし安念坊が千葉氏当主の千葉成胤に捕らえられた事で計画が露見し、協力に賛同した御家人。和田義盛の息子甥を含む十数人が捕まります。
当然逮捕の手は親衡に及びますが、親衡は捕らえに来た使者と交戦し混乱の中逐電したと言われています。
上記の通りこの城は鎌倉時代の物と言われていますが、二重空堀といった遺構から、後の時代でも何らかの形で用いられ手が加えられた可能性があります。

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください