17/12/23 青鳥城

この日は午前の内に外出して、東武東上線森林公園駅から南へ1kmほどの場所へ向かいました。

概要

この辺りは青鳥城の跡とされ、遺構も残っています。

青鳥城散策


(左)北から見た城域遠景。ただ写真を取っている場所自体城域(ほぼ湮滅した三の曲輪)と見られています。
(右)ニの曲輪西側の虎口。説明板などによると中央部にも虎口があるそうですが、確認していません。また虎口右手側(西側)は堆肥工場があり確認できません。

(左)二の曲輪堀跡。
(右)ニの曲輪土塁。

(左)ニの曲輪内。結構な広さで、主に宅地や畑地になってますが、場違い感な宿泊施設があったりします。
(右)ニの曲輪から本曲輪を見ます。

(左)ニの曲輪東側にある説明板と本曲輪を臨んだ遠景。
(右)説明板。この城は築城から廃城に至るまではっきりした事は分かっていないようですが、web上では小田原の役寺には既に廃城だったと言う記述が主なようです。

(左)城域南側に造成された道路。程なく国道254号線に合流します。
(右)南側から本曲輪へ向かう道。道路工事に伴って作られた道のようです。

(左)本曲輪内の城跡碑。
(右)本曲輪南西から見た物。

(左)本曲輪北東から見た物。
(右)本曲輪東側空堀跡。

(左)本曲輪北東端から北側空堀を見ると北東端土塁が張り出しているのが確認出来ます。
(右)本曲輪北西土塁上にある社。

(左)本曲輪西側堀底と土橋跡。
(中)土橋跡。
(右)本曲輪跡から土橋跡を経て西へ向かう道。本曲輪へ向かう本来の道と思われますが、現在外側は堆肥工場のようなので進みませんでした。

感想など

現在この城は三の曲輪はほぼ湮滅状態ですが、説明板によると関越自動車を隔てた東側に遺構が残っている模様です。ただ今回は確認していません。
ニの曲輪は宅地、畑地や工場等と色々あるものの外縁部の遺構はある程度確認出来る程度には残っています。
本曲輪は曲輪内は畑地ですが、外縁部の遺構は道路工事で破壊された南側を除くと良く残っている印象でした。
大規模な平城の割には遺構は残っていると思いますが、養豚場を併設しているらしい堆肥工場からの臭いを気にしなければ散策はし易い印象でした。

青鳥城歴史

この城は築城、廃城ともに時期ははっきりした事は分かっていないようです。
説明板によれば平安末期には原型となる本曲輪部分が築かれていたと見られているようです。
その後戦国時代には後北条氏の拠点として用いられたと見られ、現在の形になったのはその頃と思われます。
1590年の小田原の役に際して、説明板では豊臣方の前田利家の軍により落城したと記載されていますが、他方では既に廃城になっていて前田軍が陣を置いたとの記載があるなどはっきりしていない模様です。

参考

余湖くんのホームページ
wikipedia
現地説明板

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください