17/12/2 江田館

この日は午前の内に外出して、東武伊勢崎線世良田駅から北に3kmほどの場所にある新田荘遺跡へ向かいました。

概要

この新田荘遺跡は江田館とも呼ばれ、城館の遺構が良く残っています。

江田館と周辺の散策

江田館散策


(左)南から見た城域遠景。
(右)南から見た城域。説明板が目につきます。

(左)説明板。
(右)説明板の右手側には標柱があり、その間に土橋の向こう側は本曲輪です。

(左)ニの曲輪南側。説明板などがある場所はニの曲輪で、本曲輪を西側から南側に掛けてL字型に囲んでいたのだそうです。
(右)ニの曲輪西側。

(左)ニの曲輪南西部にある虎口状地形。
(右)本曲輪西側の水堀。本曲輪は東西の堀に折れが入っています。

(左)本曲輪虎口の土橋左手側の堀。
(右)同じく右手側の堀。

(左)本曲輪内。
(右)本曲輪西側土塁。

本曲輪内虎口付近で撮った写真をgooglephotoがパノラマ加工したもの。(クリックで拡大)
堀は少し後ろだったので視界はおよそ240°くらいだと思います。

(左)本曲輪東側の道と東側堀。
(右)道沿いに北へ進むと本曲輪の北東にあったという黒澤屋敷と呼ばれる屋敷跡の西側土塁があります。

黒澤屋敷


(左)本曲輪北側の堀。
(右)北西から見た黒澤屋敷。宅地化して西側の土塁だけが残ったようです。

毛呂屋敷

本曲輪北側に毛呂屋敷と呼ばれる館があったようです。複数(二つ)の曲輪があったようで、部分的に遺構が確認出来ますが宅地化している為踏み入った探索は無理と思われます。

(左)毛呂屋敷の中央部を縦断している道を南側から見たもの。
(右)道路沿い右手側にある空堀跡。側溝に見えてしまいますが、実際一部側溝になっています。

(左)屋敷跡北東側の堀。
(右)道路左手側にある屋敷跡北西側堀。

東の柿沼屋敷側から見た東側堀跡。草木でかなり見難くなっています。

柿沼屋敷

本曲輪の北東、毛呂屋敷の東に隣接して柿沼屋敷があったと言われています。現在は畑地となっていますが、南北に遺構が確認出来ます。

(左)柿沼屋敷西側、毛呂屋敷との間を抜ける道。この先には勝神社と言う神社があるようですが、犬の鳴き声がうるさかったので行っていません。
(右)屋敷南側の堀。

(左)屋敷跡北側堀と土塁。
(右)屋敷東側。この道の左手側にも南北の遺構は確認出来ましたが、東辺の遺構は確認出来ませんでした。

黒澤屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷は余湖くんのホームページを参考に周りました。

江田館歴史

この館は新田氏の流れを汲む世良田氏の一族で、鎌倉時代末から南北朝時代に掛けての人物である江田行義によって築かれたと言われているようです。
行義は同族の新田義貞に従い倒幕に加わりますが、建武政権以後は南朝方に付き西国で足利氏に抵抗したため、行義がこの館を居館にしたとしても短期間と思われます。
戦国時代には東にある反町城とともに金山城の支城として改修され、金山城主由良氏の家臣矢内四郎左衛門が城主を務めたのだそうです。
その後1583年頃、後北条氏が対佐竹氏の拠点として金山城を借りようとしたことから由良氏の家臣団が反発し籠城します。
その際に支城であった館は攻略され、金山城を攻撃の拠点となったようです。
その後金山城が後北条方の拠点となった際も支城として機能しますが、1590年の小田原の役後に廃城になったと見られているようです。

参考

関東の名城を歩く 北関東編
余湖くんのホームページ

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください