17/7/8 大久保長安陣屋、横山党館

昨日は昼過ぎに外出して、京王線京王八王子駅から西へ1.8kmほどの場所にある産千代稲荷神社へ向かいました。
途中から体調があまり良くない状態でしたが、市街を歩くのが中心だったのが幸いでした。

大久保長安陣屋

概要

この産千代稲荷神社が建立されている場所は大久保長安陣屋の遺構だそうです。

散策


(左)北東から見た産千代稲荷神社。
(中)産千代稲荷神社鳥居。境内が高くなっているのは陣屋の土塁上に建立されているためです。
(右)入り口脇の説明板。

(左)土塁上、境内の様子。
(右)神社裏手、北西側から見た土塁。

歴史

この陣屋は1590年、関東に移封された徳川家康の代官頭の1人である大久保長安によって築かれました。
長安は金山開発を始め、八王子宿の開発、八王子千人同心の創設など内政、治安などで功績を挙げ、1603年には後の幕府老中である年寄に任じられます。さらに多くの奉行職を兼任し「天下の総代官」と呼ばれるほどの権勢を振るいますが、晩年は奉行職を罷免されていき1613年に没します。
そして没後に大久保長安事件と呼ばれる事件が起こり、長安が不正に蓄財をしていたとして7人の息子全員が切腹を命じられた他、長安と繋がりがあった大名が処罰されるなどされ、陣屋もこの頃に廃止されたと思われます。

参考

現地説明板
大久保長安 – wikipedia

横山党館

その後JR八王子駅の北700mほどの場所にある八幡八雲神社へ向かいました。

概要


この八幡八雲神社辺りは平安末期から鎌倉時代掛けて武蔵国内に勢力を持った武蔵七党の一つ横山党の館があったのだそうですが、遺構は残っていません。

散策


(左)八幡八雲神社の北に祀られている横山神社。
(中)横山神社前の説明板。
(右)同じく横山神社由緒略記。

歴史

横山党の始まりは武蔵守小野孝泰の子である義孝が横山を名乗った事に始まります。
義孝の孫である経孝は1051年~1062年の前九年の役で戦功を挙げ、子孫は保元、平治の乱やいわゆる源平合戦である治承・寿永の乱でも戦功があったようです。
しかし1213年の和田合戦で和田方に付き、当主時兼は自害、一族の愛甲季隆が戦死するなどした上所領を没取され没落します。
横山党根拠地であった所領は大江広元に与えられ、広元は八幡八雲神社境内に義孝を祀った横山神社を建てたのだそうです。

参考

現地説明板
横山党 – wikipedia

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