17/6/3(1) 山上城

この日は昼頃に外出して、上毛鉄道膳駅から北東へ1.3kmほどの場所にある山上城址公園へ向かいました。

概要


名前の通り山上城の跡で現在も遺構が残っています。

山上城散策


南西から見た城域遠景。

(左)城域南西の空掘跡から進入します。
(右)空掘跡の適当な場所から芝生広場として整備された三曲輪に進入します。
(左)三曲輪とニ曲輪間の空掘。
(中)ニ曲輪内。遊具らしきものが少し設置されていますが、放置されているようです。
(右)ニ曲輪北西側、本曲輪西側にあたる箇所は帯曲輪状になっています。

(左)本曲輪虎口。
(中)本曲輪内
(右)本曲輪北側にある城跡碑。

(左)本曲輪と北曲輪間の空掘。
(中)北曲輪西側の土塁。
(右)北曲輪内。

(左)北曲輪北側の空掘。この後は堀底を移動行きます。
(中)城域西側の外堀跡。
(右)外堀の北面、城域北端部の様子。

(左)三曲輪南西に残る井戸跡。
(中)三曲輪と城址公園入り口間の橋。
(右)城址公園入り口の建造された櫓風建築物。

(左)城域の南にある元町集会場の辺りは南曲輪があったのだそうです。集会場などの北側を通る道はかつての堀切跡と思われます。
(中)南曲輪の櫓台跡。
(右)櫓台の北側に隣接して土塁跡が残っています。

山上城歴史

この城が築かれたのは平安時代末期と見られ、藤原秀郷の流れを組む藤姓足利氏の足利家綱の子高綱がこの地に居館を置いたのが始まりだそうですが、当初は城の北東にある常広寺の辺りに居館を置いていたようです。
その後も山上氏の居城として用いられますが、一時佐野氏の手により落城しているようです。
そして金山城の由良氏(横瀬氏)の助力を得て奪還するも、由良氏の影響下に置かれます。
1541年に由良氏と長野氏が対立した際に長野氏方へ離反するも後北条氏が進出して来たため圧迫されます。
そして1555年、当時の城主氏秀は後北条氏により城を追われ、後北条氏から城番が置かれたようです。
その後の詳細は分かっていませんが、近隣の膳城と同様に後北条氏、上杉氏、武田氏の争奪戦の末に廃城になったと思われます。

参考

現地説明板
山上氏 – wikipedia
余湖くんのホームページ

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