2016年末(3) 12/31 掛川城

駿府城を散策した後、静岡市内で昼食を取って東海道線で掛川駅へ向かいました。

それから駅の北にある掛川城へ向かいます。

掛川城散策

大手門~三の丸

(左)駅付近から城域の方向を見ます。真っすぐ行けばすぐ到着ですが、一旦脇道へそれます。
(中)城域南東にある大手門。
(右)大手門前から城域を見ます。

(左)門の中には歴代城主の名標と礎石根固め石が展示されています。
(中)礎石根固め石。
(右)大手門の内側にある番所。

(左)大手門北側から城域を見ます。
(右)大手門の南側を流れる逆川。天然の水堀でもあったようです。

(左)三の丸付近から本丸方面を見ます。
(中)三の丸跡。現在は広場になっています。
(右)二の丸東側土塁。この道も堀跡だったと思われます。

二の丸~本丸

(左)二の丸内御殿入り口脇の標柱と説明板。天守と共通の券を購入して中に入ります。
(右)説明板。

御殿内の様子。

(左)御殿側から見た二の丸内の土塁。
(右)二の丸から見た本丸の天守。

(左)二の丸と本丸の間にあった十露盤堀。現在見られるのは一部です。
(中)十露盤堀から三の丸寄りにある三日月堀。
(右)本丸虎口付近から太鼓櫓を見ます。

(左)本丸虎口。
(右)本丸内。

天守

(左)天守へ向かいます。
(中)天守へ向かう途中にはかつて櫓門があったのだそうです。
(右)天守前。

(左)天守前から駅の方角を見ます。
(中)同じ場所から三の丸跡を見ます。
(右)同じく二の丸を見ます。

天守内の様子。

掛川城歴史

築城~山内氏支配

この城は室町時代の中頃に駿河の今川義忠が家臣の朝比奈泰煕に命じて築かせたのだそうです。
その後朝比奈氏が城主を務めますが、泰煕の孫である泰朝の頃である戦国時代の1568年、今川氏は武田氏と徳川氏の侵攻を受けます。
その為今川氏当主氏真は駿府の居館から朝比奈氏を頼って落ち延びてきます。
その後間もなく城は徳川軍に包囲されますが、泰朝が守って落城はしませんでしたが援護も無く、翌69年に開城し大名としての今川氏は滅亡します。
徳川氏の支配下となった城には徳川氏家臣の石川家成が入ります。
1590年、徳川家康が関東に移封されると山内一豊が5万1000石で入城します。
一豊は城や城下町の整備を行い近世城郭としての形が作られたのはこの頃とされています。
1600年、一豊は関ヶ原の戦い前の小山評定で城を家康に提供する提案をするなどして、東軍への加勢を増やした功績で土佐一国を与えられ転封します。

掛川藩成立~後北条氏

1601年、家康の異父弟である松平定勝が3万石を与えられて入城し掛川藩が成立します。
1607年、定勝は伊勢国桑名へ移り、子の定行が城主となりますが、1617年に定行は定勝の後継者になったため桑名へ移ります。
その後安藤直次(駿府藩主徳川頼宣家老)(2.8万石:1617-1619:紀伊国田辺へ)、松平定綱(定勝の子で定行の弟)(3万石:1619-1623:山城国淀へ)。
1623年、最初の藩主である定勝の子である定綱が淀へ移封された後、翌24年に駿府藩主徳川忠長の家老である朝倉宣正が2万6000石で入城しますが、1632年忠長が乱心で改易されると宣正も連座して改易となります。
その後は青山幸成(2.6万石:1633-1635:摂津国尼崎へ)、桜井松平氏(4万石:1635-1639:信濃国飯山へ)、本多忠義(7万石:1639-1644:越後国村上へ)、松平忠晴(2.5万石:1644-1648:丹波国亀山へ)。
1648年、後北条氏(玉縄北条氏)の北条氏重が3万石で入城しますが、1658年に氏重が没すると無嗣断絶となります。

井伊氏~小笠原氏

1659年、彦根藩井伊氏の分家である井伊直好が3万5000石で入城します。
1705年、直好の孫に当たる直朝は乱心のため改易されてしまいますが、井伊氏が幕府の功臣である事を考慮し、本家筋である彦根藩主家から直矩が養子として跡を継ぐ物の石高は2万石に減らされます。そして直矩は翌06年越後国与板へ転封されます。
その後松平忠喬(4万石:1706-1711:摂津国尼崎へ)、小笠原氏(6万石:1711-1746:陸奥国棚倉へ)と続きます。
忠喬は以前も藩主を勤めた桜井松平氏で飯山へ転封した時の当主である忠倶の次代(孫)に当ります。
小笠原氏は転封してきた時の当主である長煕は治水工事や新田開発を行い成果を上げたようです。しかしその孫に当たる長恭は領内の盗賊に対して対策出来なかった為として懲罰的な転封をされたのだそうです。

太田氏~廃城

1746年、太田資俊が5万石で入城します。太田氏は太田道灌(資長)の直系子孫に当り、資俊は道灌から9代後の当主に当ります。
資俊は前の藩主である長恭の失敗からか治安を強化などに努めたようです。
そして資俊の子資愛は城内に藩校である徳造書院を設立するなど文化面で成果があったようです。
太田氏はその後も幕末まで藩主を勤めましたが、1868年、徳川家達が静岡藩主として駿府城に入城したのに伴い当時の当主資美は上総国松尾に転封し、廃城となりました。

参考

パンフレット
掛川藩 – wikipedia
余湖くんのお城のページ

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コメント

  1. […] この城は1869年(明治2年)、遠江掛川から移封された太田資美によって築かれました。 […]

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