2016年末(2) 12/31 駿府城

概要

30日は静岡市内まで移動してホテルで一泊し、この日は朝にホテルをチェックアウトして最初の目的地である駿府城公園へ向かいました。

駿府城散策

大手門~三の丸

その名の通り駿府城があった場所で、本丸と二の丸が公園化されています。

(左)駿府城公園の南、三の丸へ入る大手門。内部に見える建物は静岡県庁です。
(中)大手門前から右手の堀を見ます。
(右)大手門内側の枡形。

(左)三の丸跡。現在は公官庁や公共施設等が建っているようです。
(中)二の丸堀と巽櫓。
(右)駿府城公園入り口。

二の丸

(左)本来の二の丸入り口である二の丸御門跡。
(中)御門堀側の植え込みには橋を表していると思われるラインが見受けられます。
(右)二の丸南西部にある坤櫓。

(左)二の丸東側にある東御門。
(中)東御門前から左手側に見える巽櫓。
(右)東御門内側の枡形。

(左)東御門前から右手側の堀を見ます。
(右)二の丸内から見た東御門。

本丸

(左)本丸堀は明治時代に埋められてしまったのだそうで、現在残っているのはごく僅かです。
(中)本丸入り口である御玄関前御門があったと思われる辺り。
(右)御玄関前御門説明板。

(左)本丸堀と二の丸堀を繋ぐ二の丸水路には橋が掛かっています。
(中)橋の上から二の丸水路を見ます。
(右)同じく橋の上から見る本丸堀跡。

(左)二の丸跡から本丸跡を見ます。と言っても本丸堀はほとんど残っていませんので、大雑把になります。
(右)工事中の天守台跡。普段は見学も出来るようですが、年末休み中でした。

(左)二の丸西側にある清水御門跡。現在道は真っ直ぐですが、本来は枡形で左手側に向かう構造だったようです。
(中)本丸内にある説明板。
(右)同じく本丸内にある家康像。

駿府城歴史

この城の始まりは15世紀初頭に今川範政が居館である今川館を築いた事によるようです。
その後今川氏の本拠として用いられましたが、1568年に武田氏の駿河侵攻により落城し、武田氏による駿河支配の拠点となります。
武田氏滅亡後の1585年、駿河を支配下に置いていた徳川家康は今川館跡に新たな城を築きます。
1590年、小田原の役後に家康が関東に移封されると豊臣政権重臣の中村一氏が城主となります。
1601年、米子に転封となった中村氏に代わり、伊豆国韮山藩主だった内藤信成が4万石を与えられ入城します。
1607年、前年に近江国長浜へ転封されていた信成に代わり、将軍職を退いていた家康が入城します。この後家康が没するまで家康による大御所政治の中心となります。また同年、火災により多くの建築物が焼失しますが、翌年には再建されたようです。
1609年、家康の十男である頼宣が50万石を与えられて城主となりますが、幼年と言う事もあり家康が実質的な城主でした。
1616年、家康が没し、1619年には頼宣が紀伊国和歌山に55.5万石で転封されると幕府直轄となり城代が置かれます。
1624年、徳川秀忠次男の忠長が甲府から55万石で入城しますが、1631年に乱心のため改易。その後幕末まで幕府直轄となります。
1635年、火災により多くが焼失し、御殿や櫓などは再建されましたが天守は再建されなかったようです。
1868年、戊辰戦争が勃発すると新政府側の有栖川宮熾仁親王らが一時入城します。そして江戸開城に際して江戸へ移動しますが、その後徳川慶喜に代わり徳川宗家の当主となった家達が70万石を与えられて静岡藩主として入城します。
1871年、廃藩置県により廃城となった後、1891年に公園化するも1896に内堀が埋められるなどして現在に至っています。

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください