2016年末(1) 12/30 韮山城

この日は昼前に外出し、伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から東側へ1kmほどの場所にある熊野神社付近へ。

韮山高校の裏手に当たるこの辺りは韮山城があった場所で現在も遺構が残っています。

(左)西から見た城域遠景。この日の伊豆は時々雨がぱらつく生憎な天気でした。
(中)城域へ向かう道。
(右)権現曲輪からニの曲輪方面を見ます。

(左)権現曲輪の様子。真ん中に見えるのは権現曲輪の土塁、右手側はニの曲輪との間の堀切、左手側が曲輪内にあたります。
(左)(右)権現曲輪内。土塁の上に熊野神社社殿が建っています。

(左)ニの曲輪への上り道。
(中)ニの曲輪内。
(右)ニの曲輪から本曲輪方面を見ます。途中に土橋と堀切が確認出来ます。

(左)本曲輪内。
(中)本曲輪にある案内板。
(右)本曲輪からに更に先端(南)へ向かう道を見ます。

本曲輪の先には土塁で仕切られた小規模な曲輪らしき平場があります。

(左)引き返し、権現曲輪の北にある三の曲輪へ。現在は韮山高校のテニスコートになっています。
(中)三の曲輪南側土塁。
(右)三の曲輪と権現曲輪間の堀切。城の東へ向かう道になっています。

(左)城の東にある城池。
(中)城池の脇にある説明板。
(右)城池付近から更に東の江川砦、江川邸(韮山代官所)方面を見ます。

 この城は室町時代の文明年間(1469-1486)に堀越公方足利政知の家臣である外山豊前守によって築かれたのが始まりと云われているようです。
外山は堀越公方の重臣でしたが、政知没後、政知の嫡男である茶々丸によって殺害されます。
1493年、堀越公方家中の混乱に乗じて駿河の興国寺城から伊勢宗瑞(北条早雲)が攻め込み滅ぼすとその居城となります。
城が現在の形になったのはこの頃のようです。
後に宗瑞は大森氏の居城小田原城を奪取しますが、宗瑞自身は最後までこの城を居城にしていたのだそうです。
その後もこの城は後北条氏の重要拠点で伊豆の中心として機能し、後北条氏三代目氏康は四男の氏規を城主として入場させ、1569年に伊豆に侵攻してきた武田氏の軍を撃退しています。
1590年、小田原の役に際して氏規は3640人程の兵力で約44000人豊臣方相手に包囲され籠城しますが100日程の籠城戦の末に開城します。
小田原の役後、徳川家康が関東入封するとその家臣である内藤信成が1万石で入城します。
1601、信成が駿府4万石を与えられ転封した事により廃城となったのだそうです。

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