2016GW(2) 前橋城

金山城から東武伊勢崎線太田駅へ移動し、伊勢崎駅を経由してJR両毛線にて前橋駅へ。
駅付近で一泊後午前から前橋駅から北西1kmほどの場所にある群馬県庁付近へ向かいました。

概要


この群馬県庁周辺は前橋城の跡でもあります。

前橋城散策

(左)群馬県庁前から北にある本丸東側土塁と説明板。土塁内側(本丸跡)は県庁敷地となっています。
(中)説明板。
(右)土塁。かなり大規模な土塁ですが、登るのは遠慮して欲しいようです。

(左)土塁北東隅にある、前橋城跡の碑入り口。碑は幕末に城を再建した松平直克が建立したのだそうです。
(中)前橋城跡の碑付近。土塁上にあるため、本丸土塁で登れる箇所と言えます。
(右)前橋城跡の碑付近から土塁上を見ます。

(左)北側土塁にある虎口(子の門跡)。
(中)西側土塁。
(右)南側土塁。

(左)群馬県庁。かつての本丸に位置すると思われます。また庁舎は昭和3年に建造された昭和庁舎(写真右側)と新庁舎が共存しています。
(中)城域北側、前橋公園の西にある土塁跡。北曲輪外側の土塁だったようで、城域外であるさちの池などとは高低差があります。
(右)土塁外側にある、さちの池。

(左)前橋公園からさらに北側の空堀跡にある、るなぱあく。るなぱあくは入場料無料などで、日本一安い遊園地と言われているのだそうです。
(中)るなぱあくの西側、道路で区切られた空堀跡は臨江閣と呼ばれる庭園が造営されています。なお、るなぱあくとは直通の通路があります。
(右)るなぱあく北側を流れる風呂川。城内の水の手として通された川だそうです。

(左)城域東側、日経新聞社前橋支局脇にある車橋門跡。
(中)車橋門跡の石垣遺構。現在の遺構では分かり難いですが、丸馬出だったようです。
(右)門跡の地面にはこのような仕切りがあります。これが車橋門の範囲なのかも知れません。

前橋城歴史

この城は15世紀末に長野一族の長野方業によって築かれたのが始まりとされています。
方業は元々箕輪城の支城として石倉城を築いていたのだそうですが、利根川が氾濫し本丸、二の丸が崩壊した後、残った三の丸を中心に再築したのが厩橋城(前橋城)と言われています。
1551年、厩橋城は上野国に侵攻してきた後北条氏の支配下となります。
1560年、上杉謙信の小田原攻めに際して落城し、長尾謙忠が城代として入ります。
1563年、武田北条連合軍によって落とされるもすぐに上杉方に奪還され、北条高広が城代となります。
高広は156年に北条方に寝返るも、翌年越相同盟が成立し上杉方に復帰します。
1578年に起こった御館の乱で景虎側について敗れたため、上杉氏から離反し武田氏の傘下に入ります。
1582年に武田氏が織田氏に滅ぼされると、織田方の滝川一益に城を引き渡しますが、同年に滝川軍が後北条氏に敗れると北条方につき、その年の内に上杉方に帰順します。
そこで後北条氏は翌年、当主氏直も出陣して攻めてきたため落城します。その後は北条方の城となります。
1590年、小田原の役に際して浅野長政らに攻められ落城しますが、同年に関東入封した徳川家康の家臣、平岩親吉が33000石で入城します。
1601年、親吉に替わり酒井重忠が33000石の厩橋藩主として入城します。
重忠の頃に城は大改修が行われ、5代藩主酒井忠挙の頃に前橋城と改名します。
その一方で城は石倉城の頃から変わらず、利根川の浸食を受け1706年には本丸まで氾濫の被害を受けています。
1749年、酒井氏は当時15万石だった前橋藩から姫路藩へ移封し、入れ替わりで姫路藩主だった松平朝矩が15万石で入封します。
しかし1767年、城は本丸まで利根川に浸食され、一方で松平氏に城を修復する財力が無いことから城の修復を断念し、朝矩は所領の川越に居を移します。
城は廃城となり前橋には川越藩の陣屋が置かれます。
1867年、川越藩主直克は前橋への帰城を行い、新たに築いた城に居を移し前橋藩は100年ぶりに復興します。
これは前橋の領民が藩主の帰城を請願していた事と、前橋の生糸が藩の財政に貢献したことがあるようです。
しかし時は幕末であり、1871年の廃藩置県により直克の養子で前橋藩知事であった直方が免職された事で廃城となり前橋県庁、後に群馬県庁が置かれて現在に至っています。

参考

前橋城 – wikipedia

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