14/3/22 小山城

この日は昼を少し過ぎた頃に出て、JR宇都宮線の小山駅まで移動しそこから北西600mほどの場所にある城山公園へ。
ここは小山城(別名祗園城)があった所です。

公園東側の入り口公園内には3つの曲輪が残っていて、右手側上り道は2曲輪へ、左手の道は本曲輪との堀底道となっています。


公園北側入り口。
3曲輪へ向かいます。この脇にある駐車場もかつては曲輪があったようです。

3曲輪内
この曲輪は三方向を空堀に囲まれています。


3曲輪北側の空堀跡


2曲輪内。
正面の説明板は背後の公孫樹に関するものです。


2曲輪内は堀で区切られた馬出があります。
右手側が馬出内となります。


2曲輪内には馬出外と内の二ヶ所に東屋があります。
馬出外には先客(カップル)がいたので、写真の馬出内東屋で休憩しました。
奥に見えるのは本曲輪への橋。


本曲輪への橋。祇園橋と名前が付けられているようです。
本曲輪側両側には土塁が見えます。


本曲輪はもっとも良く土塁が残っています。

本曲輪北東の土塁上から曲輪内を見下ろしたもの。
忠魂碑などが建っています。

本曲輪内にいた猫

いつの間にか土塁の上に移動していたりします。

本曲輪内にある説明板。
現在の形になったのは後北条氏の手によってだそうです。

西側の思川対岸からみた城域。

この城の築城についてはいくつか伝承がありはっきりしないようです。
平安時代時代に藤原秀郷が築いたとか1148年に小山政光が築いたなどと言われているようです。

この城を居城としていた小山氏は藤原秀郷直系子孫を称しており平安時代末期には小山に居を置いていたようです。
政光の息子三人が源頼朝の挙兵に加勢して功績があったため、小山氏は鎌倉幕府では下野守護に任じられるなど重用されたようです。
そして後醍醐天皇らによる鎌倉幕府倒幕の挙兵がされると、小山秀朝は当初幕府側でしたが新田義貞の挙兵を機に倒幕側に加わり、下野守護職を安堵されています。
しかし秀朝は1335年の中先代の乱を鎮圧しようとするも北条時行の軍に敗れて自害し、幼い息子が家督が継ぎます。
1336年南北朝の戦乱が起こり、翌1337年、北朝方に属していた小山氏ですが南朝方の北畠氏らに攻められて城は落城し当主朝氏が捕虜になったりしています。

そして1380年、下野国内で台頭してきた宇都宮氏と小競り合いをしていた小山義政ですが、関東公方足利氏満の停戦命令を無視して宇都宮領に侵攻して交戦、宇都宮氏当主基綱を打ち取るなどします。
関東公方側がこれに対し討伐軍を興すと、義政は降伏後に抗戦しさらに降伏の姿勢を見せたりします。
しかし1381年に城を放棄し寺沢、櫃沢の二城を築いて抗戦するも両城とも陥落します。

義政が放棄した後小山城がどうなっていたかはっきり分かりませんが、小山氏旧領は関東公方の御料地に編入する予定だったようです。
しかし1386年に義政の子で消息不明だった若犬丸が城を奪還します。
これに対し足利氏満が再び討伐に出ると若犬丸は一度は反撃するも結局敗れて逃亡します。
その後1396年に若犬丸は再度城を奪還するも氏満が討伐に出ると抗戦せず逃亡し、奥州に逃げて抗戦したりしますが最終的に自害します。そして若犬丸の遺児も捕まり小山氏は滅亡となります。

一度は小山氏を滅ぼした氏満ですが、小山氏の同族である下総結城氏から勇気基光の次男泰朝に小山氏を継がせています。しかし小山氏はその後も室町末期に至るまで二度無嗣断絶しており、その度に同族から家督を継がせています。

そして戦国時代の当主高朝は上杉謙信の関東遠征に一度は従うものの北条方に寝返ったため上杉軍に攻められて降伏します。
しかし高朝の嫡子で跡を継いだ秀綱も北条と反北条の間を何度も移りますが、1576年に小山城は後北条氏により落城し、北条方の拠点として用いられることになります。
1582年に小山氏に城が返還され秀綱は城主の座に返り咲きますが、同時に小山氏が北条氏の傘下となります。
1590年の小田原の役で小山氏は改易され滅亡します。
その後1602年に本多正純が城主となりますが、正純は1619年に宇都宮に移封され城は廃城となりました。

小山御殿(小山評定跡)

城山公園に向かう途中、小山市役所隣の広場が気になったので帰りながら訪れて見ました。

現在遺構は殆ど残っていないようですが、徳川将軍家が日光参拝する際に立ち寄るため休憩、宿泊所としての御殿だったのだそうです。

説明板。
広場の隣にある市役所敷地もかつては御殿の敷地だったようです。

御殿は土塁と水堀で囲まれていたのだそうです。

小山御殿は上にも書いた通り、徳川将軍家が日光へ参拝に向かう際に立ち寄るための御殿として築かれました。
小山に築いたのは小山評定の吉例に習ってとの事です。
しかし4代将軍家綱が1633年に参拝した後は8代将軍吉宗が1728年に再開するまで中断していたため、その間の1682年に取り壊されたのだそうです。  

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