不定期、沖縄の歴史6 北山の歴史その一

久々の再開です。

今回は北山について・・・

北山の領域は現在でいう名護市から北になります。

親泊の港での交易により力を蓄えた今帰仁按司が周辺の按司を従えて勢力を形作ったといわれています。

その今帰仁按司は三つの系統が伝わっていて最初の系統は伝説の存在である天孫氏といわれています。天孫氏はこのグスクを築き、その後越来、浦添と移って行ったといわれています。

二十五代続いた天孫氏が利勇に滅ぼされると今帰仁グスクも廃城になったといわれています。この系統を前北山あるいは昔北山と呼んでいるようです。

廃城となった今帰仁グスクですが、浦添・舜馬順煕王の次男が今帰仁世の主として封されたといわれています。

しかしその二代目の今帰仁世の主には世継ぎが無く、英祖王の次男・湧川王子が今帰仁に封されたといわれています。この移譲は舜天王統系から英祖王統系に移ったことを考えると実際には武力により奪ったという可能性が高そうですが詳細は不明です。

この舜天王統系と英祖王統系両方の「今帰仁世の主」を纏めて中北山と呼んでいます。

中北山で記録に残っていることとしては「北山騒動」があります。

何代目かは分りませんが、今帰仁世の主に待望の世継ぎが生まれます。

千代松と名づけられた世継ぎの誕生を祝う宴の最中、重臣の本部大主が謀反を起こして今帰仁世の主を殺害します。夫人は按司側室の乙樽に千代松を託して川に身投げしたそうです。

千代松は乙樽や潮平大主といった家臣らに連れられて読谷渡具知の泊グスクへ落ち延びます。

18年経ち、丘春と名乗った千代松は旧臣を集め今帰仁奪還の兵を挙げると本部大主を討ちます。

しかしその後名護の親川グスクに居していた羽地按司が勢力を拡大しついに今帰仁世の主を滅ぼします。

このときの今帰仁世の主は丘春といわれていますが、その息子とも言われているようではっきりしません。

今帰仁世の主の息子、今帰仁子は落ち延び、伊波グスクを築きます。

これで中北山の時代は終わりを告げたのです。

参考 沖縄のグスクめぐり (むぎ社)

    新琉球王統史 (新星出版)

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コメント

  1. まぁきぃ より:

    ここをちゃんと読もうと思ってT・ランタさんのブ…
    いつの時代にもお家騒動というかそういゴタゴタはあるんですねぇ。
    琉球国っていうと平和主義みたいなイメージが強いですけど、統一されるまでは戦乱の時代もあって当然ですよね。
    資料が少ないからか、伝説の存在というのも沖縄の歴史人物にはよく出てくる気がします。それはそれで謎めいててかっこいいですけどね^-^

  2. T・ランタ より:

    >まぁきぃさん
    この時期はまだ統一国家が出来ていない騒乱の時代ですから色々ごたごたがあります。

    平和国家となったのは第二尚氏の時代に入ってからですね。

    琉球にはもともと歴史的な資料を残す習慣がありませんでしたので、史料は後世に中国の文献や伝承などを元に作られています。

    伝説じみた存在や話が多いのはそのためかもしれません。

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